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2011年3月28日更新 春日部福音自由教会

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高橋敏夫 主任牧師 メッセージ

生きること 死ぬこと

人は何故生きて死ぬのか。どこから来てどこに行くのか。

私は中学生のとき、担任の教師に尋ねたことがあります。先生の答えは、「高橋、お前、そんな ことばかり考えているから成績が上がらないんだ。まじめに勉強しろ。」でした。

日本は、世界―の長寿国になりました。けれども、それで幸せですかと問われると、複雑です。

 

1  私たちの死についての考え

〈死について何も考えない人〉
生きていくことに精―杯で、死を身近に考えられない人がいます。ただ身近に死んだ人があったときなど、ハッと、ああ人間は死ぬんだと考えますが、みんな元 気に生きることだけを考えて生活しています。やがて来る死について考えるゆとりがないのです。

〈死ぬことを考えない人
死という意識が、心の深層に深く住みついているからこそ、死という意識を自分から遠くに置こうとしている人がいます。ふとしたきっかけに、死が頭に浮かん だら、すぐに忘れようとする。でもどんなに忘れようとしても、遠くに置き去りにしようとしても、だれもこの死から逃れることの出来る人はいないのです。な らば、必ずやってくる死を自分の側に置く知恵も必要ではないでしょうか。

〈人は死んだらおしまいだとい う人
今もこの現実、この瞬間しか信じられない人、死んだ後、天国とか、地獄とか、あの世があるとか信じられない人、信じたくもないという人もいます。そのよう な人は、死や死後のことをあれこれ考えるよりも、今日を愉快に、意義深く生きることの方が大切だと考えます。人生は短いのだ、どうせ死ぬなら、楽しんで死 のうと。このような考え方は、突然襲う回避不可能な事故や、病気、試練などに対して、無防備だとはいえないでしょうか。心の備えのない人生は、深い後悔を 残すものです。
パスカルという人が言っています。「死んだ後天国が存在するかしないか、その確率は、2分の1である。」 あなたはどちらに賭けますか。

〈死をあきらめている人〉
人の死ぬことは運命である。あきらめるより仕方がないことだ、死に直面したとき、人はあまりにも無力であるのだから。このようにあきらめの中で、日々を過 ごす人の生活は輝きを失います。生命が消極的にしか表現されていないのではないでしょうか。抑鬱に苦しむ感情的な揺れの中で、陰気に生きなければならな い、そこには生きることへの発展性がない、あきらめたら、そこからは信仰も希望も愛も生まれない、不健康な生き方があるだけではないでしょうか。

〈死を受容出来ない人
若いから死を受容できないのではないのです。年老いて確実に死が切迫している人であっても死の現実を拒絶する人もいるのです。今どのような状況の中にあっ ても生きているということは、生きていると同時に死ぬことをも受容することではないでしょうか。

私は、茶道を通して生きること、死ぬことの修行をしている者です。「一期―会」という言葉は 有名ですが、これは、今の出会いを何よりも大切にしているあかしとしての―服のお茶があり、同時に、飲み終えた後に来る別れをも察知している、生きること 死ぬことの知恵の言葉だと思います。平常心で、積極的に生きることは、死への備えになるのではないでしょうか。

 

2 生きること死ぬことをイエスに学ぶ

イエスは、べツレへムで生まれ、エルサレムの郊外のゴルゴダという丘で、十字架にはりつけら れて死にました。その生涯は、33年間と言われています。まことに短いイエスの人生が、2000年間の歴史を貫いて、私たちに、生きることはこういう意味 で、死ぬことはこういうことだと、教えているのです。

〈イエスの生きること、死ぬこ とには意味があった
イエスの人生の意味は、父なる神の「御心(みこころ)」に従って生きること、すなわち、人生は、神様の賜物であるということを私たちに教えています。どん な親から生まれ、どんな育ち方をし、何という悲惨の中に生を受けたのかと思うような人生にも、尊い創造者なる神の意志があることを、イエス・キリストの生 涯は、私たちに証ししています。

〈イエスの招きの言葉〉
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているか ら、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。』 (マタイの福音書11章28、29節)

人生は、重荷を負っています。それは、生きることそのことが、重荷であり、病気も、老いることも、やがて訪れる死も耐えがたい重荷でありましょう。しか し、そのような生きること、死ぬことの苦悩の中にいる人々に、イエスは「重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」と、招いておられるのです。
イエス・キリストの目は、私たちの心に向けられています。
私たちが最も重荷として感ずるのは、すべてのよきものさえも汚し、腐らせ、絶望という悲惨を生む私たちの心が原因ではないかということです。日本人が最も 嫌う「忌む」という言葉があります。これをよく見ると、己の心と読めるではないですか。実に我が心こそ、人生の最大の重荷、その心をイエス様が負ってくだ さるというのです。それは、キリストが現わされた「イエスの心」に学んで生きるということに他なりません。

〈イエスの十字架の死〉
十字架にかけられたイエスの隣の犯罪人の―人が、死に行く中で、「イエス様」と祈っています。その祈りを聞いてくださったイエスが、その犯罪人に、次の言 葉を与えられました。
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカの福音書23章43節)
こう言われて、イエスは、死んだ後迎えられるパラダイスを明らかにされています。

〈イエスの復活〉
十字架に死なれたイエスのからだは、取り下ろされて、墓に葬られたのです。しかし、3日目の朝イエスは復活されたという良き知らせが福音なのです。人は死 んでも、神様の命に与かり、復活のからだが新しく与えられるということ、これが、聖書の真理です。真理とは、変わることがないということであり、真理でな いものを排除するという排他性も持っていることは事実です。古来、私たち日本人は、「分け登る麓の道は異なれど、同じ高嶺の月を見るかな」と言って、どん な道もみんな同じさ、とうそぶいているように、私には思われます。それは、どれもこれもみんな不確かであるということを証明してはいないでしょうか。
イエスの誕生と死と復活は、私たちの生きること死ぬことに、信仰と希望と愛を与えたのです。

 

3 イエスを信じて生きる

人間が自分の限界を知った時に、祈りが生まれます。それが、あの十字架にかけられた犯罪人の 「イエス様」という祈りです。
遠藤周作氏の「死について考える」という本の中の次の―文に、私は感動しました。
『椎 名燐三さんはプロテスタントですけど、洗礼を受けた時に私に、「遠藤さん、ぼくは洗礼を受けたから、これでじたばたして、虚空を掴んで、死にたくない、死 にたくないと叫んで死ねるようになったよ」と言ったんです。私には椎名さんの言うことはとてもよくわかる。自分の醜いことをどんなにさらけ出しても、神様 にはたいしたことではないということです。』

信じた者の何という安らぎ。イエスの愛に触れて、神の愛を信じた人間は、自分がどんなにわめ き、叫び、悶絶しようとも、私を支える永遠の愛の御手がそこにあるという生き方を、イエスは私たちに与えてくださっているのです。

私は16才で洗礼を受けました。そして、62才の今日まで、これが真理であることを味わって きたのです。イエスは言われました。『わたしが道であり、真理であり、いのちなので す。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』 (ヨハネの福音書14章6節)

この―文を読まれたあなたの心に、「イエス様」という祈りが沸き上がることを、私は切に願う のです。
勇気を出して、「イエス様、私をお救いください。」と、今、祈ってみては如何ですか。

 

 

 

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